活動報告2(第五回~第八回)


第八回楠公研究会

稀代の軍神大楠公

その末裔・伊勢楠氏の謎に迫る

平成30年3月13日(火)

第8回楠公研究会「稀代の軍神大楠公その末裔・伊勢楠氏の謎に迫る」報告、まずは、四日市市楠歴史民俗資料館にて、伊藤副館長様を始め職員の皆様はもちろん、同資料館の保存運営委員会の田中委員長と同委員会の語り部の皆様の温かい歓迎をいただきつつ、資料館内の楠町(くすちょう)の歴史に関する様々な貴重な資料に基づいて、ご講義いただきました。

この日は、ご多忙なご公務の合間を縫って、日頃より懇意にさせていただいております三重県議会の水谷議員様もお越しくださり、会も大いに盛り上がりました。

四日市の方々でも、楠町の町名の由来が伊勢楠氏にあるという事をご存知ない方も多いらしく、大楠公から受け継がれてきた伊勢楠氏の系譜など、多くの事をご教授いただきました。

資料館での予習後は、すぐ近くに残る楠城址へ移動し、現地に於いて城跡の説明を受けました。

 楠城(くすじょう)の築城は、南北朝時代の正平24年(1369年)。初代城主は、正成の落胤の末裔と伝わる信濃国諏訪の豪族、諏訪十郎貞信(正信)。
 その後、二代、三代と諏訪氏が城主を務め、応永19年(1412年)、四代城主には楠正威が入城、楠一族がこの城を引継ぎ、以後約170年に亘り、楠氏の支配が続きました。
 四代城主楠正威は、南朝の復興を目指したものの比叡山で戦死、時代が下って六代城主楠正忠のころからは、新興の織田信長と戦い、七代正具は、最後まで信長に抗して大坂石山合戦で討ち死。
 この戦いの際に、正具は、同じく伊勢の国の八田城に立て篭もり、その難攻不落ぶりを目の当たりにした信長をして「さすがは稀代の天才・正成の末裔である」と、敵ながら天晴れと称賛しめたと伝わります。
 八代正盛の代には、秀吉に反抗して落城、のち天正12年(1584年)に処刑されました。 
 城跡近くに「丸の内」という地名が残ってはいるものの、城跡には史跡を示す標柱と看板の他、往時の遺構は残っていません。
明治の末、城跡に残っていた老松に代わって植えられたクスノキが伊勢楠氏の嘗ての繁栄を今に伝えています。

楠城趾を後にして、次なる目的地の攜松山来教寺へ。
当寺の名草住職は、大楠公の代から累代の楠氏当主に御典医として仕えられたお家柄で、楠氏に従って、共に伊勢に移住され、その後も御典医として仕えられました。

今回、名草住職様の格別なるご配慮にて、特別に秘仏をご開帳くださいました。
一つは、織田信長の伊勢侵攻の折に焼け出された華台寺の本尊、通称・焼け仏。

こちらは、かなり損傷が激しく胴から上部の一部のみ残存した状態でお祀りされています。
そして、もう一つが、楠氏が楠城内にて泰応寺という伽藍を築き、その中で一族の護り本尊としていた観音像。

こちらは、秘仏中の秘仏であり、本来であれば年に一度しかご開帳されないところ、我々の為に特別にご開帳くださいました。
秘仏の為に、写真公開は不可ですが、黄金に輝く観音像のお姿は、まさに浄土の美しさを体現されているかのような神々しさを放っておられ、参加者一同、その美しいお姿に暫し目を奪われ、ずっと見入っておられました。
伊勢楠氏ゆかりの秘宝拝観は、まだまだ続きます。

楠城主累代の菩提寺である正覚寺へ。
この境内には、初代楠城主・諏訪十郎貞信の墓碑と伝わる五輪塔とその顕彰碑が建立されています。

また、ご住職の格別なるご配慮にて、秘宝・大楠公所持の御神鏡を特別に見せていただきました。
実際に手に持った御神鏡はとても小さいものですが、「楠正成」の署名が刻まれており、歴史の重みを感じました。
嘗て、先祖・大楠公が手にした鏡を、700年の時を経て自らも手にしている事に、脈々と受け継がれてきた楠木一族の血脈の重さを改めて感じました。
今回の楠公研究会は、初めての関西圏以外での開催であった為に不安もありましたが、楠歴史民俗資料館の皆様を始め、ご関係の皆様のご理解とご協力のお陰にて、今回も素晴らしい成果を挙げる事ができた事、感謝に尽きません。
さて、次回の楠公研究会は、研究会設立1周年を記念した総会及び祝賀会を湊川神社にて開催の予定。
1年間の活動記録をまとめた小冊子も発行致しますので、ご期待ください。


第七回楠公研究会

桜井の訣別の地を訪ねて

〜楠公父子の会交流会〜

平成30年2月12日

第七回楠公研究会「桜井の訣別の地を訪ねて〜楠公父子の会交流会〜」、盛況裡に終える事ができました。

第一部では、楠公父子訣別の地にて、ボランティアガイドの方による現地説明会。
ご尽力いただきました島本町議会の皆様に深謝。
まずは、第七回楠公研究会第一部のご報告から。

戦前は聖域とされたここ桜井の駅趾には、東郷平八郎元帥や乃木希典大将、近衛文麿など、往時を偲ばせる名だたる方々の石碑が建てられています。

また、出陣前に大楠公が矢を納めた八幡神社(通称、矢納神社)にも参拝。
ボランティアガイド様からの熱の入った講義に、参加者一同、熱心に耳を傾けておられました。

続いて、第二部の「楠公父子の会との交流会」ご報告。
旭堂南青氏の講談「楠正成」は笑いあり涙ありの大盛況でした。

講談後は、楠公父子の会と拙会との交流会に。

互いの会の結成経緯と活動方針とその具体的内容について報告、親睦を深める事ができました。
同じく楠公を顕彰する立場として、連携の大切さを再認識しました。

今回、多大なご尽力をいただきました島本町議会の皆様、そして、楠公父子の会役員及び会員の皆様に、心よりの感謝を申し上げます。


第六回楠公研究会

四條畷合戦楠木軍本陣・往生院

~小楠公かく戦えり~

平成30年1月30日

四條畷合戦に於いて、小楠公が本陣を布いた東大阪は往生院へ。

まずは、ご住職様ご子息の川口様より講義を賜りました。
ここで、日想観の道場であった往生院のご由緒をはじめ、ここで幼少期を過ごされた小楠公のご事蹟について、非常にご丁重に、詳細に、御教授いただきました。
とても分かりやすいレジュメまでご用意いただきました川口様、誠にありがとうございました!

そして、ご講義後は、境内の特別拝観へ。
楠公研究会顧問の堺市の西川市議をはじめ、遠くは鳥羽、敦賀等等からも、多くの皆様にお越しいただき、感謝感激でした。

川口様のご案内にて、境内の展示館、歴史館の特別拝観へ。

※お写真は、往生院様の特別な許可をいただいて掲載しており通常は非公開ですので、転載不可にて宜しくお願い致します。

聖武天皇勅願寺として建立された往生院は、夕陽を拝する日想観の道場として、四天王寺の真東に位置しています。
また、平安期は末期病患者のホスピスとしての機能も兼ねており、死を目前に末期症状に苦しむ患者を、仏様のお慈悲により病苦から解放し、極楽に往生する為の教えを施しておられたそうです。
館内には、とても貴重な宝物である聖武天皇ご宸筆「岩瀧山」の扁額も展示されていました。...
また、四條畷合戦の後、高師直が焼き討ちした際に焼けた壁土、また、小楠公が往生院にて生活しておられた当時の土器の展示も。
土器には、当時造られた方の指の跡も残っており、南北朝時代をとても身近にリアルに感じとることができました。

また、境内の至る所に菊水紋が掲げられており、小楠公とのゆかりの深さを物語っていました。

いよいよ、これから小楠公墓所の特別参詣へと進みます。

※お写真は往生院様の特別な許可をいただき掲載しており通常は非公開ですので、転載不可にて宜しくお願い申し上げます。

小楠公が少年期を過ごし、四條畷合戦においては本陣とされ出陣して行かれた往生院。
四條畷合戦にて小楠公が自刃されて後、小楠公の首は京都に送られましたが、胴体は黙庵禅師によって、ここ往生院に葬られました。
今も往生院境内に胴塚が祀られ、墓所内には、小楠公が梓弓を持ち今まさに辞世の句を刻まんとする姿の銅像も建っており、その勇猛果敢さを今に伝えています。
また、墓所入口には、お寺に寄進をされた初代中村鴈治郎の名前の入った銘板も。

今回の楠公研究会も、往生院様の篤い温情のお陰様にて、大変有意義な素晴らしい会となりました。
お心尽くしの御教授をくださいました川口様には、深謝絶えぬ思いです。
まるで小楠公がすぐ傍におられるような、とても身近に感じられることができました。
誠に感激でいっぱいの1日でした。


第五回楠公研究会「吉野に伝わる小楠公事蹟と弁内侍悲話」~吉水神社・如意輪寺~(平成29年11月20日)

第五回楠公研究会「吉野に伝わる小楠公事蹟と弁内侍悲話」は、皆様の温かいご理解ご協力のもと、今回も多くの方々にご参加いただき、大変盛況裡に終える事ができました。
以下に活動の詳細報告をさせていただきます。
まずは、如意輪寺参詣に先立ち、有志にて吉野の吉水神社に参拝させていただきました。

鎌倉時代初期には、源義経が兄・頼朝が差し向けた追手から逃れて、ここ吉水院にて愛妾・静御前、弁慶らと共に一時期隠棲しました。
また、南北朝時代には、後醍醐天皇が吉水院に行幸され、ここを御所とされました。
吉水神社には、今も後醍醐天皇の玉座や義経・静潜居の間等が現存、また、内部の書院には宝物殿も併設されており、非常に後醍醐天皇や楠木正成、源義経を始め、神社にゆかりの非常に貴重な宝物が数多く所蔵されており、その秀逸さに圧巻されます。

吉水院庭園は、安土桃山時代、豊臣秀吉が吉野で大花見を催した際に、神仙思想に基づいて設計した「鶴亀蓬莱の庭」と名付けられた桃山様式の日本庭園。

安土桃山時代の華やかさを今に伝えています。

遠く、蔵王堂を借景とした趣き深い景観です。

書院の庭の北側には、後醍醐天皇が時世にも「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」と詠まれたように、日々帝が祈りを捧げられた「北闕門」 が遺されていて、現在も、北闕門にて「九字真法」という陰陽道の護身のお祓いである「四縦五横」にて手刀で空を切って祈ると邪気が祓われると言われています。

当日は、吉水神社の佐藤素心宮司より格別なるご厚遇をいただきご丁重なるご講話をいただきました。
また、楠公研究会会員でいらっしゃる井畑法康様が佐藤宮司様とご友人であられた奇遇のご縁もあり、会員一同、大いに感動しつつ素晴らしい参拝をさせていただく事ができました。

吉水神社参拝に引き続き、如意輪寺へ。
今回の如意輪寺参詣に於いては、楠公研究会会員でもいらっしゃり如意輪寺の加島公信住職のご友人でもいらっしゃる井畑法康様のご厚意にて、如意輪寺へお繋ぎいただく機会を賜りました。
当寺は、塔尾山椿花院ともいい、延喜年間に醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人が草創、後に、後醍醐天皇は吉野行幸に伴いここを勅願寺とされました。

正平二年、四條畷の戦いに先だって、小楠公が御村上天皇に暇乞いの為に拝謁をするため吉野を訪れた後、ここ如意輪寺境内奥にお祀りされている後醍醐天皇御陵にも参拝します。

御陵は後醍醐帝の時世の想いを表し、北闕を望む形にてお祀りされています。

その後、小楠公は一族郎党143名を率いてここ如意輪寺にも参詣し、髻を切って本堂内の御佛前に奉納、決死の出陣を前にその覚悟を以て過去帳に全員の姓名を記します。

その後、本堂の扉に鏃を以て「かゑらじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と時世を刻んでから、足利方の大軍を迎え撃つべく四條畷に向けて出陣していきますが、衆募敵せず敗北、弟・正時と刺し違えて自害、一族郎党も悉く自害又は壮絶な戦死を遂げました。
この時に小楠公が時世を刻んだ本堂は現存しており、時世が刻まれた扉のみ腐敗を防ぐ為に外されて宝物殿に所蔵され拝観することができるようになっております。

但し、宝物殿内に安置されている扉は非公開となっておりますのでお写真は割愛させていただきます。

また、境内本堂横には、小楠公と婚約していた弁内侍が、小楠公の死後、自らの黒髪をおろしてそれを埋めた際に建てた「至情塚」も現存しており、二人の相思相愛の想いをひっそりと現在に伝えています。

研究会当日は、如意輪寺副住職の加島裕和様による格別なるご厚意にて、通常は立入りできぬ本堂内にてお参りをさせていただきました。

この本堂内は、小楠公はじめ一族郎党は髻と過去帳を奉納した所です。

また、本堂内に密かに安置されている門外不出の小楠公御位牌を拙会のみにご開帳くださり、会員一同、二度とはないであろう貴重なご厚遇に感激もひとしおでした。
(小楠公御位牌は門外不出につき写真は非公開とさせていただきます)

その後は奥の書院にて茶菓の接待を拝受しつつ、大変ご丁重なるご法話を頂戴致しました。

ご法話の中では、ここだけの秘話も多くご教授いただき、一同非常に興味深く、加島副住職のご法話に耳を傾けていました。

御馳走になりましたお干菓子は、如意輪寺特注菓子の非売品の為にとても貴重なもので、会員皆、大変美味しくありがたく御相伴に預かりました。

ご法話後は、加島副住職様御自ら、境内と宝物殿をご案内いただき、小楠公の短くも偉大な事蹟と、弁内侍との悲恋について多くを学ばせていただきました。

勉強会終了後は、加島副住職より如意輪寺の絵葉書が参加者一同に贈られました。
今回の研究会も、通常では有り得ぬ非常に貴重な経験ができ、大変有意義な会となりました。
これもひとえに、拙会活動にご理解を賜り応援してくださる皆様のご高配の賜物と感謝の尽きぬ思いでございます。